マカオカジノ(ゲーミング)産業発展史
- 2013/2/8 14:11
- 特集
カジノ専営制度(独占営業権)
泰興公司によるカジノ独占営業権が1961年12月31日をもって満了することを受け、マルケス総督は同年7月に新法を公布、合法化された「幸運博彩」方式によるゲーミング業の独占経営権を公開入札方式で決定することとした。葉漢氏、葉得利氏、何鴻燊(スタンレー・ホー)氏及び霍英東氏らの香港・マカオ商人による新会社と元ライセンス保有企業である泰興公司の2陣営が入札。結果、新会社側がゲーミング業及び現在の宝くじ、ロトにあたる富くじの独占経営権を獲得することとなった。同年8月、インドネシア華僑の鄭君豹氏がドッグレースの復活を政府に申請し、政府は8年間のドッグレース独占経営権を新たに組織された「マカオ・カニドローム(逸園賽狗公司)」へ与え、1963年8月に正式開業した。
葉漢氏、葉得利氏、何鴻燊氏、霍英東氏らによる新独占会社は1962年に「澳門旅遊娯楽有限公司(澳門旅遊娛樂有限公司)」(略称「澳娯」)の名で登記を完了。同年、「澳娯」による最初のゲーミング施設として「新花園カジノ」をオープンし、以後40年の長期に渡り「幸運博彩」方式によるゲーミングの独占事業を展開する。その後、1970年に旗艦施設となる「ホテルリスボア」、「リスボアカジノ」が開業。開業以来1982年までに「澳娯」は法律の下、ファンタン、バカラ、クラップス、シックボー(大小)、ブラックジャック、スロットマシンなど10種を超えるゲームを次々と導入した。
1980年、葉漢氏が「澳門賽馬車會」を設立し、馬車レースを導入するものの、残念ながら好評を得られず、賭け金が伸び悩む中で1988年に事業を終了。同年、「澳門賽馬車會」は「台灣朕偉投資開發股份有限公司」により買収され、レースコースを競馬場とした上で1989年に最初のレースが開催された。しかし、競馬場として再出発するも、度重なる不利な状況に見舞われ、開業一年で財政危機となってしまう。結局、「澳娯」が10億パタカの資金を集めて「澳門賽馬車會」を買収することで事業を継続、1991年2月にレースが復活した。
1998年、「澳娯」が日本のパチンコを導入。同年、ワールドカップ開幕に間に合うよう「澳門彩票有限公司」がサッカーくじ販売ライセンスを政府から獲得。「澳娯」は積極的に事業範囲を拡大させ、マカオゲーミング界最大のプレーヤーとなる。